ハマフェスのメイン会場として「音楽・食・スポーツ」のコンテンツが集結し、多くの来場者で賑わう山下公園。
このページでは、図録『横浜・山下公園 —海辺に刻まれた街の記憶— 』(発行:横浜都市発展記念館)の構成をもとに、山下公園の歴史を紹介します。
臨海公園としての山下公園は、外国人居留地に設けられた海岸通りにその原点を見ることができる。横浜開港後、現在の山下町一帯にあたる山下居留地の海岸部は、居留外国人向けのクラブやホテルなどが建ちならぶ海辺のプロムナード(散歩道)として整備された。明治中期以降、貿易港として港湾設備の建設が進むなかでも、海岸通りは人びとが直接海と接することのできる場所であった。
明治後期になると、欧米の諸都市で実践されていた都市計画の考え方が紹介されるようになり、横浜市でも明治40年代から市区改正(都市計画)のための調査が始まった。大正8(1919)年の都市計画法の制定を受け、横浜市には市区改正局(のち都市計画局)が組織されるが、この時点ではまだ都市公園の具体的な計画を立案するには至っていない。山下公園の原型ともいえる海岸通りの前面を埋め立てる計画が初めて登場するのは、関東大震災直前の大正12(1923)年8月のことである。
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災で、横浜の市街地は壊滅的な被害を受けた。横浜市では震災直後から都市再建のための復興試案の作成に取りかかるが、そのなかで震災前に挙がっていた「海岸遊歩道」の計画が再浮上する。横浜市は市街地に堆積する大量の瓦礫処理のため、遊歩道の予定地である海岸通りの前面を瓦礫処分地に指定し、これがのちの山下公園の整備へとつながっていった。
横浜市が提出した復興計画案は、予算が大幅に縮小されたことで実施されることはなかったが、個別の計画のうち「逍遥道路」の一部であった海岸遊歩道が、復興公園のひとつとして実現することになった。公園の名称として横浜市は「海岸公園」を提案するが、最終的には政府案の「山下公園」に決定した。公園の設計は内務省復興局が手がけ、かつての海岸通りを拡幅し、あらたな海辺のプロムナードとして長さ800mにおよぶ山下公園が誕生した。
昭和10(1935)年3月26日から5月24日にかけて、関東大震災からの復興を記念するとともに更なる経済復興を図って、横浜市の主催により「復興記念横浜大博覧会」が開催された。主会場となった山下公園にはさまざまなパヴィリオンが建てられ、3ヵ月間で320万人を超える来場者が横浜を訪れ、人びとは海辺での祝典を体験した。
昭和5(1930)年の開園以降、山下公園は横浜を訪れる内外の人びとにとって、海辺のあらたな名所として定着していく。横浜市は復興記念横浜大博覧会をきっかけに観光事業に力を入れるようになり、昭和11(1936)年には土地観光課を新設して、さまざまな出版物やイベントを通じて横浜の観光PRをおこなっていった。
昭和15(1940)年は「皇紀」(『日本書紀』に記された神武天皇の即位年を紀元元年とする年号表記)で2600年にあたるとされ、国内では早くからオリンピックや万国博覧会の招致をはじめ、各種の記念事業が計画されていた。山下公園は万国博覧会の横浜会場の一部として予定されていたが、日中戦争の長期化にともない博覧会は中止され、やがて戦争末期になると山下公園は海軍に接収され、終戦を迎える。
終戦後の昭和20(1945)年9月2日、山下公園は米軍によって接収され、園内全域に将校クラスの家族住宅が建設された。公園はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止区域となった。昭和20年代後半以降、国内外から横浜を訪れる観光客が増加するなか、横浜市は接収会解除の要望を繰り返すが、施設移転の交渉が難航し、公園内の全面的な接収解除は昭和34(1959)年6月まで待たねばならなかった。
昭和26(1951)年、国に代わって横浜市が横浜港の管理者となった。大型客船が入港する横浜港は、従来の商業港・工業港に加えて観光港としても位置づけられ、具体的な港湾整備計画が進められる。しかし、米軍による港湾施設の接収が続くなか、それらに代わる施設としてあらたに山下埠頭の造成が始まり、山下公園を横断する臨港鉄道や公園の地先を埋め立てる埠頭が計画されるなど、戦後復興のなかで山下公園のあり方は大きく揺らいでいた。
横浜開港100周年にあたる昭和33(1958)年、海運・港湾関係者を中心とした横浜海洋文化センター構想が発端となって、港のシンボルとなる記念塔が計画され、昭和36(1961)年1月15日、展望台や海洋科学博物館を備えた「ヨコハマ・マリンタワー」が山下公園前にオープンした。
同じ年の6月2日には、引退を迎えた貨客船氷川丸が山下公園に係留され、宿泊できる海の教室として再生を果たした。2つの施設は横浜の新たな名所として、山下公園とともに多くの観光客を集める存在となった。
昭和40年代以降、観光地化がすすむ山下公園は行楽シーズンにもなると多くの修学旅行生や観光客で賑わいを見せていたが、昭和30年代以来の休憩施設の不足や露店の不法占拠などの問題も指摘されるようになっていた。賛否両論のあった臨港鉄道の高架線は、その後の自動車社会の到来によって、昭和61(1986)年にはその役割を終えており、平成12(2000)年に山下公園内の部分が撤去され、残りの高架線は「山下臨港線プロムナード」として整備された。かつては立ち入れなかった港湾地区も、現在では人びとの賑わいの場として開放されており、山下公園とともにあらたな「海辺のプロムナード」を形成している。
和暦 | 西暦 | 月 | 日 | 内容 | 時期 |
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大正8 | 1919 | 4 | 5 | 都市計画法の制定 | Ⅰ |
大正11 | 1922 | 4 | 横浜の都市計画区域が決定 | ||
大正12 | 1923 | 8 | 19 | 海岸通りを埋め立てて遊歩道にする公園系統案が『時事新報』に掲載 | |
9 | 1 | 関東大震災発生 | Ⅱ | ||
9 | 21 | 横浜市復興会の設立(9月30日発会式) | |||
9 | 21 | 横浜市による「海岸遊歩道」の計画が『報知新聞』夕刊に掲載 | |||
9 | 24 | 横浜市が内務省技師牧彦七に都市計画を委嘱 | |||
10 | 10 | 横浜市が瓦礫の処分場所に海岸通り地先を指定 | |||
10 | 14 | 牧彦七による横浜の復興計画案が成案 | |||
11 | 13 | 牧彦七による復興案を政府に提出 | |||
11 | 15 | 政府原案を帝都復興院評議会に提出 | |||
11 | 19 | 土木学会が「横浜復興ニ関スル意見書」を提出 | |||
12 | 26 | 横浜市復興会が復興計画の別案を作成 | |||
大正13 | 1924 | 12 | 27 | 震災復興計画の公園新設事業決定 | |
大正14 | 1925 | 1 | 26 | 山下公園が都市計画決定 | Ⅲ |
6 | 山下公園の造成工事着工 | ||||
昭和2 | 1927 | 12 | 1 | ホテル・ニューグランドが開業 | |
昭和5 | 1930 | 3 | 15 | 山下公園の開園式 | |
昭和10 | 1935 | 3 | 26 | 山下公園を主会場として復興記念横浜大博覧会が開催(〜5月24日) | Ⅳ |
昭和11 | 1936 | 8 | 1 | 横浜市が土地観光課を新設 | Ⅴ |
昭和14 | 1939 | 12 | 18 | インド水塔の引渡式 | |
昭和15 | 1940 | 11 | 10 | 紀元2600年の記念式典が横浜公園で開催 | Ⅵ |
昭和18 | 1943 | 日本海軍が山下公園を接収 | |||
昭和20 | 1945 | 9 | 2 | 米軍が山下公園を接収 | Ⅶ Ⅷ |
昭和29 | 1954 | 6 | 2 | 山下公園の中央部分4,776坪が接収解除 | |
昭和34 | 1959 | 4 | 20 | 山下公園の大桟橋側9,218坪が接収解除 | |
6 | 29 | 山下公園の山下埠頭側7,787坪が接収解除 | |||
12 | 8 | マリンタワーの建設工事着工 | Ⅸ | ||
昭和35 | 1960 | 12 | 3 | <水の守護神>の像の除幕式開催 | |
昭和36 | 1961 | 1 | 15 | 「ヨコハマ・マリンタワー」開業 | |
4 | 山下臨港線が着工 | ||||
5 | 17 | 氷川丸が山下公園に係留 | |||
6 | 2 | 氷川丸開業 | |||
昭和40 | 1965 | 4 | 6 | 公園内にレストハウス完成 | Ⅹ |
7 | 1 | 山下臨港線の開通式 | |||
昭和49 | 1974 | 12 | 山下公園と最寄り駅を結ぶ都心プロムナード事業が着工 | ||
昭和56 | 1981 | 11 | 1 | 山下臨港線の廃止 | |
昭和63 | 1988 | 地下駐車場および「せかいの広場」の整備開始 | |||
平成元 | 1989 | 3 | 25 | 横浜博覧会(YES’89)の開催(〜10月1日) | |
平成12 | 2000 | 山下公園内の貨物線高架を撤去 | |||
平成14 | 2002 | 3 | 2 | 山下臨港線プロムナードの開通 |
制作協力:横浜都市発展記念館