異国情緒が漂う街、横浜。その中心にある横浜セントラルタウン-馬車道、関内、山下町(山下公園通り・日本大通り)、横浜中華街、元町・山手。この街にはどんな歴史が秘められているのでしょうか。
幕末、黒船で現れたペリー提督は日本に開国を迫ります。幕府がペリー提督と開国を決める条約を結んだ場所が「横浜村」でした。
1859年、幕府は横浜の港を外国に向けて開きます。小さな村だった横浜は、外国貿易の拠点となるべく、突貫工事で「開港場」へと整備されました。そこには諸外国の人びとが暮らす外国人居留地が設けられ、また日本各地から集まった商人で賑わう街が出現しました。
開港場横浜は、外国からの文物や技術を受け入れる窓口となり、急速に近代化を遂げていく明治日本の中で、経済・外交・文化交流の拠点となりました。
横浜セントラルタウンは、まさにこの開港場を中心とする場所です。ここは、国際都市横浜の源流であり、近代日本の礎ともいえる場所なのです。
約100年ほど前の横浜セントラルタウン地区の地図です。アイコンをクリックすると当時の写真をご覧頂けます。
(制作協力・画像所蔵:横浜開港資料館 地図:実地調査横浜市全図(部分)1911年)
幕末、現在の北仲通り付近にあったフランス領事館前から、伊勢佐木町入口の吉田橋まで一直線の道路が作られました。馬車も通れる広い通りであったことから「馬車道」と呼ばれ、道沿いに写真店や洋食店などハイカラな店が並ぶ商店街へと発展しました。日本でのアイスクリーム、発祥の地です。
幕末に開港場を建設した際、取締のため開港場の周囲を水路で区切り、そこに渡る橋のたもとに関所を設けました。この「関所の内側」=関内で、開港場の範囲をさします。開港場は外国人居留地と日本人町とに分かれますが、現在一般的に使われる「関内」は旧日本人町一帯です。
外国人が暮らす地域「外国人居留地」のうち、山下居留地が現在の山下町と日本大通りです。ここは会社や銀行などが集まる商業地区で、また各国の領事館も開かれた外交の舞台でもありました。
開港後、西洋人とともに、通訳・商人・職人として、大勢の中国人がやってきました。その多くが山下居留地の一角に集まり住み、様々な商店・関帝廟・学校などを設け、中華街が発展していきました。
横浜村に開港場が建設されたため、村民は引っ越しを命じられ、村ぐるみで山手の山すそへと移り住みました。これが元町の始まりです。旧横浜村の人びとは居留地で暮らす外国人の生活に必要なパン造り、洋裁、西洋家具造りなどの新しい仕事に挑戦し、元町商店街が発展しました。
外国人居留地のうち山手居留地が現在の山手一帯です。 ここは住宅、学校、教会、劇場、病院などが設けられた地区で、現在もその名残の洋館が建っています。
1854年 | ペリ-提督、2度目の来航で、横浜に上陸。日米和親条約が結ばれた。 |
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1859年 | 日米修好通商条約により横浜開港。開港場の整備、外国人居留地の開設。 |
1868年 | 大政奉還(明治維新)。江戸幕府の神奈川奉行から明治政府の神奈川県へ。 |
1872年 | 本町通りなどに日本最初のガス灯設置。横浜と新橋の間で鉄道開通。 |
1889年 | 横浜市制施行、横浜市が誕生。 |
1894年 | 大桟橋完成。 |
1899年 | 幕末に結んだ条約が改正され、外国人居留地が廃止。 |
1909年 | 横浜開港50年祭。 |
1917年 | 開港記念横浜会館(現横浜開港記念会館)建設。 |
1923年 | 関東大震災が起きる。 |
1930年 | 震災復興の一環として山下公園開園。 |
1939年 | 第6次市域拡張(現市域の確定)。 |
1945年 | 横浜大空襲、GHQによる接収。 |
1956年 | 横浜市、政令指定都市となる。 |
1958年 | 横浜開港100年祭。 |
1964年 | 根岸線開通(桜木町―磯子)。東京オリンピック。 |
1968年 | 首都高速横浜羽田空港線開通。 |
1972年 | 横浜市営地下鉄開通。 |
1989年 | 市制100周年記念横浜博覧会(YES横浜)、ベイブリッジ開通。 |
2009年 | 横浜開港150年祭(Y150)。 |
制作協力:横浜開港資料館